言語と文化について
今日、勉強の合間に言語と文化についての論文を読んだ。
それを読む中で、面白い発見をしたので、ちょっとだけブログに書き留めておこうと思います。
私はアメリカに来て、日本に居た時よりはるかに英語を使うことが多くなったし、
何よりも英語という言語に触れる時間が多くなった。決して自分が日本人であることを
忘れたというわけではない。たった1年の留学じゃそんなことは起きない。
こっちで生活する中で、感じたことがあった。自分の『日本語力』の低下。
英語を使っていくうちに、日本語を使うことがおろそかになっていった。
今日読んだ論文で、非常に考え深かったのは、最近の日本語に起きている問題である。
日本語は本来、感性・五感を重視し、表現力に長けた言語である、と私は思っていた。
だけど、今日読んだ話の中では、日本語におけるカタカナ語が問題になっていると書かれていた。
たしかに、最近メディアや雑誌の中ではおおくの新たな単語が生まれている。
更にはニュースの中でも、若者の間で使われているような言葉が使われるようになってきているように感じる。
もし、このような現象がこれから先も起こり続けるのであれば、多くの昔からあった日本語が姿を消し、新たな単語に置き換わっていくのだろう。
カタカナ英語などがその良い例だと思う。
論文の著者は日本の社会は言葉に対して無頓着だと述べていた。
確かに、そうかもしれない。グローバル化によって英語を話すことが促進される中で、
日本語すらまともに話すことのできない日本人たちが育っていくのかもしれない。
自らの言語を大切にできない人々が、他の文化の言語を習得すればどうなるのか。
いずれ、日本の『特有』の文化が消えてしまうかもしれない。
いまこうして文章を書いていても、自分の語彙力・表現力の足りなさを実感する。
もっと、日本語で書かれた文章を読む必要があるのではないか。そう感じる。
日本語と英語は全く異なる言語である。文法、発音、表現すべて。
日本語はイメージを大切にする一方で、英語は分析的な言語であるそうだ。
それを考えると、英語話者による科学の分野での研究の発展もうなずける。
日本での英語教育は、私たちに偏見をあたえてしまっているように感じる。
日本語訳から英語訳への翻訳なんかは、学習者がそれが抱える根本的な問題を意識しながら行わなければ無意味なものである。
実際、わたしも英語と日本語の翻訳に何も不思議は感じなかった。
しかし、その両者の表現を一寸の違いもなく翻訳するのは到底不可能なことなのだ。
だからこそ、私たちは他の言語を習得するとき、自らの文化を忘れ学ばなければならない。
でないと、わたしたちは文化の違い(=言語の違い)に気付かずに自らの文化の中で他の文化の言葉を考えてしまう。